京都に2019年オープンした福田美術館*1で昨夏から昨秋にかけて開催された企画展が巡回してきたもの。巡回展ではあるものの、高岡市美術館開館30年記念展という名目だった。そういうのアリなんやと思いつつ、まとまった数の夢二の画が見られるのはありがたいので行ってみた。
2024年は夢二生誕140年没後90年というメモリアルイヤー。振り返るタイミングとしては最適だったと思う。
ぶっちゃけ夢二の作品はそんなに好きでもなかった。直近でいうと、2年前の夏に石川県立美術館で催された『竹久夢二展~憧れの欧米への旅~』へも足を運んだが、そこでは海外渡航中の夢二が素描したものばかりで、あまりピンとこなかったせいもある。さすがにそれを最終評価にするのはもったいないと感じていたのも、赴いた理由のひとつだった。
結論、鑑賞してよかった。これまでの印象とはだいぶ変わった。
夢二の画は制作ノウハウをまったく知らない素人目からすると、けして技巧派というわけではない*2。では夢二作品の何が、人々を魅了するのだろうか。
個人的には鑑賞するものが介入する隙があるから、だと思う。夢二は詩を綴るように絵を描くことを心掛けていたという。たんに情報として眺めるならば、モデルを精密に描いているか否かが焦点となる。しかし、描かれた詩として絵画を見てみると、鑑賞は読解と解釈の時間と化す。もちろん、宗教画のアレゴリーを読み解くのもそのような営みはあるが、アイコンとは異なり夢二の作品には一意に定まる正解はない。そのため、人々のあらゆる思いを受け容れうる。
こう考えると、夢二の作品はヘロヘロなグルーブが癖になるローファイやガレージロックのようだ。第一印象はゆるいけど基底には確固たる意図がある……そういうものはどのような様式であっても一定の評価を得て、長く愛されるのかもしれない。
話が脱線した。SNSに写真アップOKとのことだったので、3作品ほど紹介して終わる。図録を買ったがキャプションが収録されていないようなので、どうせ撮影できるならキャプたくさん撮ればよかったとすこし後悔。
素朴な娘の髪を結える瞬間に、来館者の爺さんも写真を撮っていた